丁寧な生活への抵抗

青梅やらっきようがスーパーに並んでいるのを見たり、
友人たちが梅仕事をしたり、ラッキョウ漬けたなどの話を聞いて、
ステキだなと思いつつも、心の底で何とも言えない抵抗感とザワザワとした気持ちを感じる私。
私は今はそういうのはいいの!
と言いつつも、生活を丁寧に生きるってこと、
そういう大切なことに抵抗する私がこれでいいのかしら??
という思い。
そんなところ、あるコラムでこんな一文を目にした。
「今までは仕事が一番で暮らしが二番だったけど、
新しい生活では順番を変えて”暮らすこと”を大事にしたいと思った。」
そう、それ、私は逆なんだ。
そう思った。
結婚してから、それまでろくにしたことがなかった家事というものをするようになり、
最初はそういうのを出来ない自分は恥ずかしいと思い、
家事をちゃんとこなす素敵な奥さんを理想として、なんだかんだ頑張ってきた。
頑張ったとは言いすぎではあるが、
理想を出来る奥さんに置いていたのは確かだ。
世の中の物差しがそういうものだと思い込み、それが良いことだと思ったから。
いま改めて、実はそれは本当に自分の意思だったのだろうかと思ってしまったりする。
気づけば主婦歴も、もうかれこれ20年を超え、
まあなんだかんだこなすようになった。
全くもって完璧とは程遠いが、
それでも、一時期は先に挙げたような梅酒を仕込むとか、手作りパンを捏ねるとか、お手製ジンジャエールとか、
そういったいわゆる丁寧生活に入るようなこともやってみたりした。
それはそれで楽しかったし、おそらく生活も潤ったと言っていいのかもしれない。
とりあえず一通り満足いくようになり、
今はこれ以上あれが出来たらいいな、これが出来たらいいなとか
そういう気持ちがあまり湧いてこない。
やったらいいし、出来るだろうけど、時間取られちゃうしね。。。
そっちの方だ。
結局、私にとって外から見て素敵に見えたものは思いは
一度やって満たされて、また出来る時になったらやればいい、くらいになっている。
それでも生活というのは生きる以上必ずあるもので、
そういうことをおざなりにしている自分に対してこれでいいのかしら??
というモヤモヤした思いはどうしてもある。
そして今こっちが一番と言える仕事をしている訳ではないから、
これがまたザワザワの元にはなっている。
今はなんの結論もない。
もう一周回って、また生活が大事だよね。
って日々を慈しむ毎日が来ることがいいような気もしている。
ただ、今は以前ろくに出来なかった家事が出来ることを理想としていたように
これまで二番めだったそれ以外の事、仕事を何か形にしたいと
もがいているということなんだろう。
それがどこに向かうのか、明確に見えない。
だから、こっちでいいの!と言い切れない。
それが、この丁寧な生活に対する抵抗とモヤモヤの正体なのかもしれない。